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浦添港と進貢船浦添は古くから「うらうすい(浦襲)」また「うらすい」とも読んだ。
浦々を支配すると言う意味である。琉球史の中で記録されたのは、源為朝の長子と伝えられる舜天王が、世の主(国王)に即位するまでは、母と共に浦添城下に住み、浦添按司となるとある。

沖縄の首都が浦添であったと言う証拠は、為朝の子舜天王統が滅び、英祖王統、察度王統と二百年餘を経た後、沖縄南部の佐敷小按司が後小松天皇の代1406年前浦添城を攻落し琉球国中山王武寧を滅ぼした際の記録「おもろ」がある。

きこえ うらずいや しまの すや やればももちゃらの かまへ みむやぜ

とあることでも浦添が沖縄の首都であったと言う証拠である。

浦添城下には浦添港(牧港)があり、英祖王(1260年-1313年)の時代は特に近海の島々との船の往来が頻繁であった。また察度王(1350年-1395年)からは明国や朝鮮との往来も盛んになり、文中元年(1372年)明国大祖皇帝よりの冊封使(勅使)が派遣された。

察度王は明国大祖皇帝より琉球国の中山王と認められ、明国の盟邦として毎年進貢船を往来させるようになった。
それにより琉球の貿易は一層盛んとなり、琉球の文化経済は高まっていった。

進貢船は「じゃんく」を琉球船(やんばる船)に改造した「まあらん船」で、15反帆ある。
普通の「やんばる船」は8反帆で用材は松、杉、いじゅ、樫などで造り帆は特に浦葵の葉を編んで造られていて、雨風に抵抗の強いようにされている。 

琉球船は他のジャンクや御朱印船と異なり、縫航が出来ると言う特徴があり風向にかかわらず、航行できると言う航海術の発達を物語っている。
書物のない琉球は、この琉球船で多くの富と海外文化を移入し、沖縄で精選濾過して高い琉球文化を確立し琉球の富をもたらした。